カイエ

本とか色々

音という光 恩田陸『祝祭と予感』

カザマ・ジン。

jinn。なるほど、精霊の名は彼にふさわしい。

                    ――恩田陸「伝説と予感」

 

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 めっちゃ久しぶりになってしまった。
 とりあえず修論の草稿を脱稿しました、やったね。まあここから怒涛の直しが入るんですが…… ともあれ年は越せそうな感じがしますね。

 

 このブログをおざなりにしていた2か月間の間にもSEKIROをちょっとやったり本を幾つか読んでいたのだけれども、とりあえず手元にあったこの本を手に取った。

 本作『祝祭と予感』は恩田陸の長編『蜜蜂と遠雷』のスピンオフ短編集である。『蜜蜂と遠雷』そのものの感想も書くべきなのだろうけどちょっと手元にないのでまた後日に。

 本作は「祝祭と掃苔」、「獅子と芍薬」、「袈裟と鞦韆」、「竪琴と葦笛」、「鈴蘭と階段」及び「伝説と予感」の6作品からなっている。
 個人的には「鈴蘭と階段」、「竪琴と葦笛」、「伝説と予感」が好きだったかなという感がある。

 「鈴蘭と階段」は栄伝亜夜の友人である浜崎奏がヴィオラに転向する過程で自身のヴィオラを見出す作品なのだが、ヴィオラの表現が実に良かった。ヴィオラの音色を聴いていると奥深い森や水中にいるような深みとか神妙さ感覚を個人的に覚えることが多いのだが、作中で表現されるデモーニッシュ、旋律や絶望という表現は非常に腑に落ちるものだった。僕もその内ヴィオラ弾こうかな…… 

 「竪琴と葦笛」はマサルナサニエルに師事するまでを描く話。読了した時の最初の感想が「とんでもねぇ……」だったのが個人的に印象深い。『蜜蜂と遠雷』を読んでいる過程でもナサニエル・シルバーヴァーグの神経質さとか不器用な感じに惹かれるものはあったのだが、ここまでマサルを狂わせているとは思わなかった……。これに関してはまた『蜜蜂と遠雷』と併せて書きたい気もする。

 「伝説と予感」は風間塵がユウジ・フォン=ホフマンと出逢ったときの話。この作品に関しては窓から溢れんばかりに差し込む光のような印象を読んでいる最中ずっと抱いていた。そこにふわりとコーヒーや林檎の花の香りが漂うような感覚。CDのブックレットに収録された作品だったので些か短くて読み足りない感もあったのだがこれはこれで余韻を残す感じで良いのかも知れない。

 

 来年はもうちょっと落ち着いて本とか沢山読めると良いなと思う。1月2月はちょっと厳しいかもだけど…… それでは良いお年を。

追憶は深く 千早茜『透明な夜の香り』

「香りは脳の海馬に届いて、永遠に記憶されるから」

 

「ガラスには匂いがないんですか」

 私がそう言うと、朔さんはぼんやりとした目をした。

「うるさい夜とか、そこから見る世界はどんなものか想像するよ」

 紺色の空気の中、透明なガラス瓶の底で眠る朔さんの姿を思い浮かべる。彼だけが知る、永遠を抱きながら。

――千早茜『透明な夜の香り』

 

透明な夜の香り (集英社文芸単行本)

透明な夜の香り (集英社文芸単行本)

 

 

 香りというものにフェティッシュを抱いている。
 むしろ個人的には特定の香りに何らかの感情を抱いていない人間の方が少ないのではないか、とさえ思う。個人的には、煙草や雨が降っているときに空気の匂いや夏の夜、人気の絶えた路上に漂う陽炎の残滓のような水気を含んだ匂いを挙げたい。なにがしかの経験に紐づけられているのでは、と訊かれるとそういう部分もあるだろうし、社会的に醸成されたイメージを香りを媒介にしているだけかも知れない。特定のイメージを持つ匂いを纏えば纏った当人にもそのイメージを抱かせるだろうし、香水はそういった用途として用いられることに異論はないだろう。そういえば私が煙草を喫い始めたのも大本はその香りに対する憧憬だったような気もする。

 五感は否応がなしに人の意思に介在するし、そう言ってよければ指向性を持たせられると思っている。パスカルキニャールは『音楽の憎しみ』において「耳にはまぶたがない」と書いていたが、匂いも同様に身体に入り込んでは感情を上書きしていく。そこで想起されるものはある程度「定義づけ」られていると思う。もちろん各々の経験や内側に蓄積されているもので偏光して出力されるものは変わっていくだろうけれども、匂いであれ音であれもしくは文章の流れであれ、ある程度想起される感情や感覚、色彩なんかは一定な気がしている。これらの感覚はそれそのものが構成単位として最小に近いものであるために、他の感覚で代替するしか表現方法がないというのが歯がゆくもある。もっと表現力があれば、と毎度のように恨んでいる。

 

 本作は今年、2020年の4月に初版が出た千早茜の作品である。この作者のことを知ったのはTwitterか書店で見たこの本が初めてだったけど、どうやら2009年に泉鏡花文学賞を別作品で受賞しているらしい。泉鏡花文学賞は「ロマンの薫り高い」作品に与えられるとされており、過去の受賞者には澁澤龍彦森茉莉、多和田洋子山尾悠子などが名を連ねている。

 物語は、家族に関して暗い過去を持つ元書店員の主人公、若宮一香がとある求人広告を見かけるところから始まる。広告には、家事手伝い、兼事務、兼接客、との文字が書かれており、飾り気のない不器用そうな感触に好感を抱いた一香はその求人に応募する。面接に招かれた先は古い洋館で、そこでは天才的な調香師、小川朔が "la senteur secrète"と名付けられた オーダーメイドの調香サロンを営んでいた――

 

 作品自体は、家事手伝いとして雇われた一香が、調香師の朔、庭師の源次郎、朔の幼馴染で探偵である新城と共に、舞い込んでくる香りにまつわる依頼や事件を紐解いていく形で話が展開されていく。
 文章は非常に平易で読みやすく、また、香りをテーマにしているだけあって、特に調理の場面におけるハーブやスパイスの描写がきめ細かい。ただ食材を刻んでハーブと共にミルクパンで煮込むだけで完結する美しさがここにはある。作中において洋館とそれ以外の場所では空気感が完全に隔絶しているといっても良い。閉ざされた静かな楽園のような洋館の空気と、雑多で猥雑な街の空気。ヴィルヘルム・ハンマースホイに描かれるような静謐さを気品のある香りで彩るとこうなるのだろうかという感じさえする。

 前述で事件といったように、香りや依頼人にまつわる事件を主人公たちが解決したりするのだが、個人的にはそれらの要素はあまり重要ではないのかも知れないとすら思える。ただ、この描写を堪能するだけでも本書を手にする価値はあるだろう。

 

 また、個人的な話になるがこれらの香水が少し気になっている。前にTwitterのフォロワーが話していた、AGONISTというブランドも気になっていたが聞く話によると終売してしまったそうだ。元々、自分の研究分野が海洋関連なので海に憧憬を持っている部分が多くある。もし他にマリンノートやタバコベースの薫りがあったら是非教えてほしい。

noseshop.jp

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人を裁くは我にあり アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』

「私が長年罪を裁いてきた経験から言えば、神は断罪と贖罪の仕事をわれわれ人間に任せています――しかし、その仕事はたやすくなしとげられることではないのです。近道はないのですよ」

 ——アガサ・クリスティそして誰もいなくなった

 

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 私事だが、ここ1週間程度体調を崩している。ラボの研究的に休んでいる場合ではないのだが、まあ良い機会なので骨休めしてついでに積読も崩している。そろそろ積んでいる本が片付く……かと思いきや、FF14に手を出してしまったため積読が増えるスピードと拮抗するくらいに収まってしまった。どうして。けれどもFF14やめられないんだな、これが。

 

 さて、今回はクローズドサークルと見立て殺人の金字塔、『そして誰もいなくなった』である。初版は1939年でクリスティの作品群でいうと中期に当たるといえる。特に本作品は『アクロイド殺し』、『オリエント急行殺人事件』と並んで知名度の高いクリスティの傑作として知られており、ミステリーノベルの歴史に燦然と輝く作品といっても過言ではないだろう。
 なお、本作は見立て殺人のオリジンと呼ばれることもあるらしいが、実際はフィルポッツの『だれがコマドリを殺したのか?』やヴァン・ダインの『僧正殺人事件』の方が早かったりする。同じクリスティの見立て殺人でも『ABC殺人事件』とかの方が早いが、ただ、本作の影響力があまりにも絶大なためにそう思ってしまう人もいるのかな、とは思わなくもない。

 本作はイングランド南西部のデヴォンに位置するとある孤島を舞台に繰り広げられる。インディアン島と名付けられたその島はアメリカの富豪が買っただの、ハリウッドスターが避暑地にしているだの、海軍が実験場に使っているだのと怪しい噂の枚挙にいとまがないが実際の所は定かではない。旧友からの招待の手紙や人からの依頼を受けてインディアン島に呼び込まれたのは、元判事、秘書、元陸軍大尉、信仰の篤い老婦人、退役軍人、医者、遊び人の青年、元警部の8人。船に乗り合わせて島に辿り着くもののそこで待っていたのは使用人夫妻であり、招待人であるU.N.オーエン夫妻は不在であった。どこか奇妙な感覚を覚えつつめいめい晩餐にあずかるものの、その時の談笑で互いが島へと呼ばれた名義や細部に違和感を覚える。そして、晩餐を終え食後のコーヒーブレイクを迎えていた食堂へととある声が響き渡る。その声によると、ここへ招待された面々はそれぞれ殺人を犯したというのだが……

 

以下、犯人やネタバレを含む感想。

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叶わずに消えた憧憬 アガサ・クリスティ『ポケットにライ麦を』

――でも、とってもキレイな人でしょう。

 

――アガサ・クリスティ『ポケットにライ麦を』

 

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 本作『ポケットにライ麦を』は1953年に発表されたアガサ・クリスティの長編作品で、ジェーン・マープルを探偵役としたいわゆるマープルシリーズの一つである。
 また、この『ポケットにライ麦を』も同作者の『ABC殺人事件』や『そして誰もいなくなった』と同じく、見立て殺人を題材にした作品だ。

 ちなみに2か月前ほどに早川から新訳版が出ているはずだが、私は古い方(1976年初版)で読んだ。

 物語は投資信託会社の社長であるレックス・フォテスキューが会社で急死する場面から始まる。搬送先の馴染みの医師の話によると、どうやら今回の急死は毒によるものであり、イチイから採られるアルカロイドのタキシンによるものではないかという。
 フォテスキュー家邸宅である水松荘に乗り込んだニール刑事は懸命に調査を行うが、その内に第2、第3の被害者が出てしまう。そこに現れたのは被害者の知人を名乗る老婦人で……

 

以下、犯人とネタバレを含む感想。

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同じ月を見ていた 恩田陸『光の帝国 常野物語』

――僕たちは光の子供だ。どこにでも、光はあたる。光のあたるところには草が生え、風が吹き、生きとし生けるものは呼吸する。それは、どこででも、誰にでもそうだ。でも、誰かのためにでもないし、誰かのおかげというわけじゃない。

                         ――「光の帝国」

 

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『光の帝国』は恩田陸が1997年に刊行した短編集である。デビュー作の『六番目の小夜子』が1992年で、本作は第5作目にあたる作品であるらしい。

 個人的に恩田陸といえば、『夢違』や『夜の底は柔らかな幻』のようにファンタジー色が強いものしか読んでいなかったのだけれども、この作品も同じく特殊能力を持った「常野」の人々の生活を描いた短編集である。副題の「常野物語」から連想されるように、常野は柳田國男の著した『遠野物語』、ひいては遠野民話を下地に置いているのは自明かとも思う。

 

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はじめによせて

 そういえば昔から書評というものは好きだった。

 土日の新聞の文化欄なんかをチェックするのは好きだったし、今でも本を読むときの手掛かりにしている書評サイトなんかはいくつかある。冬木糸一さんの「基本読書」だったり、鳥ふくろうさんの「ボヘミアの海岸線」(旧・キリキリソテーにはうってつけの日々)だったり、故・二階堂奥歯さんの「八本脚の蝶」がそれにあたるわけだけれども、ついぞ今まで自分がそういうものを書こうと思って実行に移したことは無かった。

 何故か、と問われても説明しがたいのだが、書きたいという気持ちはあってただそれを文章にまとめてどうこうと説明するのを苦手としていたからというだけの気もする。

 ただ、思うのは今まで本を読んできて、読了後に抱いた考えや感情というものをお座なりにしてしまったのではないかという事だ。こういったことは毎度毎度思っていて、ふと思い返した時、何か取り返しのつかないようなことをしてしまった、という漠然とした不安感があった。そういった不安感が心の片隅に凝り固まっていたのに最近ようやく気付いた気がする。概してこういった思いというものは後から無理に思い返そうとしても鮮度が失われてしまっていて、どこか焦点のぼやけたものにならざるを得ないというのを肌身に沁みて感じている。

 また、最近読書会というものを不定期に開催している。今まで私が読んできた本は純文学や海外文学やSFに分類されるようなものが多かったわけだけれども、ここに来てようやくミステリや他のジャンルにも手を出せたような気がした。そして、読書会の度に自分が感じたものの一部すらも言語化できてはいないなと痛感している。であれば、今までため込んだ本も含めて、ある程度感想を形として残せるようなものを作ろうと思った。それがこれである。

 正直、飽き性の毛もあるのでいつまで続くかは分からないけれども、いつか見返した時に何か思えるようなものであれば幸いだと思う。