カイエ

本とか色々

同じ月を見ていた 恩田陸『光の帝国 常野物語』

――僕たちは光の子供だ。どこにでも、光はあたる。光のあたるところには草が生え、風が吹き、生きとし生けるものは呼吸する。それは、どこででも、誰にでもそうだ。でも、誰かのためにでもないし、誰かのおかげというわけじゃない。

                         ――「光の帝国」

 

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『光の帝国』は恩田陸が1997年に刊行した短編集である。デビュー作の『六番目の小夜子』が1992年で、本作は第5作目にあたる作品であるらしい。

 個人的に恩田陸といえば、『夢違』や『夜の底は柔らかな幻』のようにファンタジー色が強いものしか読んでいなかったのだけれども、この作品も同じく特殊能力を持った「常野」の人々の生活を描いた短編集である。副題の「常野物語」から連想されるように、常野は柳田國男の著した『遠野物語』、ひいては遠野民話を下地に置いているのは自明かとも思う。

 

 

収録作品

・大きな引き出し

・二つの茶碗

・達磨山への道

・オセロ・ゲーム

・手紙

・光の帝国

・歴史の時間

・草取り

・黒い塔

・国道を降りて…

 

以下、簡単な感想

 

・大きな引き出し

 膨大な量の情報を自分の中に「しまう」ことのできる一家の話。その一家の少年である春田光紀が、近所に住んでいる老人の間際に立ち会った際にその過去を幻視し、そのビジョンが絶縁状態だった老人の息子・猪狩悠介とのわだかまりを解くことに繋がっていく。
 出奔した息子の行く末を父親が一番思案していたというありがちな展開ではあるものの、やはり王道は強いと思った。ところで、結局両親の職業は何なのだろうか…… 紀行作家といっていたもののカバーストーリーだろうし。この先の短編の「光の帝国」で、常野に伝わる物語や歌を演ずる一族、という男の子が登場するが彼も春田家なのだろうか。
 全く別の話だが、Youtubeに上がっている小澤征爾のブラ1の天覧公演は名演だと思う。

 

・二つの茶碗

 三宅篤が取引先の高島氏に連れられて、とある不可思議な料亭を訪れる話。「お水を一杯いただけませんか」と出迎えの娘に声を掛けろと言われその通りにするも、娘が運んできたのはお茶で、娘の瞳に気を取られた篤は茶碗を取り落として割ってしまう。
中に上がった後に高島氏に話を聴いてみると、どうやら娘は客の行く末が分かるらしく……

 どこか奇妙な読後感がある話で私は比較的好みだった。語り手に惚れた娘がもう未来を見られなくなり、というのはままある話かもだが、2番目の作品という事もあり常野の非日常性を上手く匂わせている感があって良い。

 

・達磨山への道

 泰彦が古い友人である克也と達磨山と呼ばれる山を登っていく話。子供のころ、夏休みに父親に連れられてきたというこの山にはどうやら曰くがあるらしく、道中で人生の転機となる場面が立ち現れるのだという。その道中で「たかはあつみ」と名乗る少女を幻視した泰彦はその少女が付き合っていた藍子と克也の間に生まれてくる娘であろうことを察し心に冷たいものが落ちるのを感じる。

 結構好みの作品。汗ばむ陽気の熊笹に覆われた山で白ワンピースの少女を幻視する描写が幻想的でありつつ怖気が走る感覚が良い。最後の主人公に胸中におけるこのもどかしさがいいんだよな…… 主人公の自業自得ではあるんですが。

 

・オセロ・ゲーム

 キャリアウーマンである拝島暎子が日々を送りつつ、「裏返った」ものたちと攻防を繰り広げる話。

 割と一連の短編集では異質な作品。勧めてくれたフォロワー曰く、同作者の『エンド・ゲーム』に繋がる作品らしい。常に文章から緊張感が漂ってくる作品ではあるが、その分後半で「裏返った」者に接触される場面では少し手に汗を握るものがあった。人間と植物の取り合わせというのはこの先の「草取り」でも出てくるが関連性が気になる。

 

・手紙

 「達磨山への道」で登場した泰彦の父親である倉田篤彦が常野についての情報を探し求める話。寺崎恭治郎という僧侶からの手紙が大部分を占め、彼の話は「鶴先生」という人物の話へ発展していく。

 今までの情報が一旦集約される話。特別な書見台を持つ春田家、遠耳の家系、長命の家等々について触れられていき、最後には達磨山へ登った寺崎が鶴先生や話を聴いた老婆と邂逅しては話が終わる。特に最後の部分に関しては割と個人的にホラーテイストな印象を覚え、寺崎が無事で帰還するのかが心配していた。寺崎が手紙の中で月について触れる部分があるのだがこの部分が好きだった。以下は引用。

「しかし、結局はみんな同じ月を眺めているのだという思いが日に日に強くなる。いつも、昼も夜も同じ一つの月が空にあって、我々は色々な場所でその月を見上げている。君とは全然違う場所であるが、やはり同じ月を見ているのだなあと、当たり前の事をつらつらと考えるようになったのは老人の兆候か」
「晴れた空に真っ白な月が浮かんでいた。その月を見た途端、なぜか涙がこぼれて来た。昼も夜も、月はいつもある。みんなが同じ一つの月を見上げている」

 常野も気づかないだけで身近にあるという意味だろうが、何故かやけに身に沁みるものがあった。

 

・光の帝国

 表題作。鶴先生を語り部に、戦時中の白神山地における常野の分教室についての物語。

 前半の比較的平和な暮らしとは対照的に後半の部分がそこそこ重い。個人的にはナガレ先生とコマチ先生が好きだったのだが、両者とも死んでしまった…… 特に後者は憲兵を許せねぇ、と悲しい気持ちになる、権力構造ェ……という。
 最後の部分である程度救われるものの割とご都合主義な感じもするので声は聞こえずとも待っている鶴先生の方が「国道を降りて…」での邂逅にはインパクトを持って行けたのではないかとは少し思う。

 

・歴史の時間

 亜希子が歴史の自習時間にクラスメイトである春田記実子と生命の歴史、及び常野の誕生についてを幻視する話。

 非常に幻視の描写が美しい。雨の海から現れる人形の描写からベビーカーの部分に至るまでの暖かな楽園じみた空の部分が好きかも知れない。
自然淘汰なんて信じない。誰も自然に淘汰されたりなんかしない。ただ在り続けることが必要」という言葉には、それは自然淘汰の一部なのでは……? と思ってしまったものの、後の「黒い塔」へ続く前置きとしては非常に秀逸。

 

・草取り

 「草」を刈る男性とそれに同行する語り部のお話。最初は主人公には草は見えなかったものの一度双眼鏡を通じて見えるようになると町中、ひいては人にまで草が生えていることに気付き……

 これも連作の中では異色の作品。特に人物名に言及されることもなく、草とそれを刈る行為についてが語られる。人間と植物の取り合わせというのは前出の「オセロ・ゲーム」にも登場するもので、個人的には草が生えすぎると「裏返る」のかとも思っていたが真偽は定かではない。どうなのかしら。

 

・黒い塔

「歴史の時間」の主人公、亜希子が実家に帰るのを皮切りに常野に関する自分の出自についてを思い出す話。

 実の両親が育ての親ではないという事実を思いがけない形で知ってしまったために苦しんでいた亜希子が吹っ切れる話ともとれる。この作品でも春田記実子が良い役どころをしている。最初はシュークリーム食べろと言ってくるただのお姉ちゃんだったのに…… 亜希子が今後の常野に関して中心的役割を担っていくような話がなされているけれども彼女は何を成すのだろうか。

 

・国道を降りて…

  天才的なチェロ奏者川添律とフルート奏者田村美咲が蔵王連山近くの常野の地を訪れる話。

 短編集の締めくくりという事もあり、「光の帝国」でなされたものが回収される作品でもある。演奏会のテーマが「月」である部分もいろいろと感慨深い。(回想の歩きながらチェロを弾く部分に関してはマジでどこの部分を吊ってるのかがわからなすぎて困惑したけれども…… チェロ吊れる部分ある……?) 個人的には、地図だと思ってた紙が実は白紙で、プロポーズするまで迷ったふりしてたのとか好き、憎めないキャラをしている。
 ありがちといえばありがちではあるが、やはり最後の描写が良い。「ずいぶん遠回りしちゃったね」という言葉が非常に効いてくる。この一文のためにこの物語が展開されてきたといっても過言ではないはず。

 

 

 ところで、初めてこのタイトルを見た時、最初に思い浮かんだのはシュールレアリスムの画家であるルネ・マグリットの作品群、「光の帝国」だった。

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ルネ・マグリット「光の帝国」(1954年、ベルギー王立美術館所蔵)

 

 マグリットはこの一連の作品集に対して以下のような言及を行っているらしい。

「光の帝国の中に、私は相違するイメージを再現した。つまり夜の風景と白昼の空だ。風景は夜を起想させ、空は昼を起想させる。昼と夜の共存が、私たちを驚かせ魅惑する力をもつのだと思われる。この力を、私は詩と呼ぶのだ。私はいつも夜と昼へ関心をもっていたが、決してどちらか一方を好むということはなかったからである」

 

 作中で、常野の字は「常に在野であれ」という意味であることが語られる。表題作の「光の帝国」を、一般人と能力を持つ「常野」の人々との共存へ至る道程の表象として捉えることは別におかしい事でもなんでもないのかも知れない。