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叶わずに消えた憧憬 アガサ・クリスティ『ポケットにライ麦を』

――でも、とってもキレイな人でしょう。

 

――アガサ・クリスティ『ポケットにライ麦を』

 

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 本作『ポケットにライ麦を』は1953年に発表されたアガサ・クリスティの長編作品で、ジェーン・マープルを探偵役としたいわゆるマープルシリーズの一つである。
 また、この『ポケットにライ麦を』も同作者の『ABC殺人事件』や『そして誰もいなくなった』と同じく、見立て殺人を題材にした作品だ。

 ちなみに2か月前ほどに早川から新訳版が出ているはずだが、私は古い方(1976年初版)で読んだ。

 物語は投資信託会社の社長であるレックス・フォテスキューが会社で急死する場面から始まる。搬送先の馴染みの医師の話によると、どうやら今回の急死は毒によるものであり、イチイから採られるアルカロイドのタキシンによるものではないかという。
 フォテスキュー家邸宅である水松荘に乗り込んだニール刑事は懸命に調査を行うが、その内に第2、第3の被害者が出てしまう。そこに現れたのは被害者の知人を名乗る老婦人で……

 

以下、犯人とネタバレを含む感想。

 

 一連の犯人は次男で放蕩息子のランスロット。メイドであるグラッディスを偽名で篭絡し、レックスに毒を盛らせた。しかる後にグラッディスを絞殺し、続けて父の後妻であるアディールを青酸で毒殺したという。
 動機は財産目当てだが、特に父親が過去につかまされた廃鉱山が実はウラン鉱床である事が分かったためにそれを手に入れようとしていたらしい。

 

 やっぱりランスロットか……という感じでしたね。露骨にアリバイがあったので、最初の殺人と他のでは犯人が違うのでは、と思ってましたがおおよそそんな感じ。
 ちなみにタキシンの致死量は0.25g / 50kgで、おおよそ種子を4,5粒経口摂取すると死に至るらしい。マーマレードに練り込むの頑張ったな、グラッディス。

 なお、廃鉱山を手に入れた際に対立していたマッケンジー家の娘が近くにいるのではないか、という話だったが、それは長男・パーシヴァルの妻であるジェニファ・フォテスキューだった。長男と結婚することで亡き父親がレックス・フォテスキューに奪われた財産をそっくり取り戻すことになるのではないか、という魂胆だったらしい。それはそれで色々と悲しいものがあるな……

 物語自体は中々に楽しめました。中盤まで探偵役が登場しないのでニール刑事が最後まで推理するのかとも思ったけど、途中でマープルものであることに気が付いたのでいつ探偵が出てくるのかと思ってましたね。主役は遅れてやってくるもの。個人的にはパーシヴァルとミズ・ラムズボトムが好きでした。特に後者は良いキャラをしている。

 

 個人的にこの物語を読んで思ったのが、あまりに女性陣が不憫に過ぎるな、という事だった。もちろんヴィクトリア朝エドワード朝の残滓色濃い古色蒼然とした舞台だというのもあるのだけれども、消極的な復讐のために結婚してしまったジェニファ、ランスの罪を知らずに信じ続け、そして3度目の別れを迎えることになるであろうパトリシア、殺人の片棒を担がされるためにありもしないロマンスを信じてしまったグラッディス。こういうのを見るとなんとも言えない気持ちになりますね…… ミズ・ラムズボトムとかメアリー・ダブは別ですが。やはり色恋沙汰は騒動しか呼ばないのかしら。

 

 冒頭の引用はマープルが自宅に帰った後にグラッディスから届いた手紙の最後の部分。この一文が彼女のもの悲しさをより際立たせて、中々に心を動かされるものがあった。思わず彼女のロマンスが真のものであったなら、と思ってしまうけれども、叶わずに消えた憧憬ほど綺麗なものもないのかも知れない。